生きること

1 3 月, 2012 (07:49) | コラム(ライフスタイル), コラム(介護・福祉・医療)


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生きることって、食べることや、寝ること、愛すること、と同じものだと思う。

なぜ、食べるのか、寝るのか、愛するのか、と問われればそれは、我慢すると苦しいから。苦しいから欲する。そして、我慢して、欲し得られたときの、一瞬の快楽を知り人はまた我慢し、我慢できるのです。その一瞬の快楽のために。

生きることも同じ、欲してるんだと思う。

そして、一瞬の快楽のために我慢しているものなんだと思います。



突然ですが、これからの時期、季節や、仕事や、学校や、生活や、人生などなどが、大きく変わるので、自死もまた増えます。

我が国では、年間の自殺者が3万人を越しています。

私は、自殺がいいとか、悪いとか言う気はありませんし、

死ぬな、とも言えない。

でも、

生きることにもまた、特別な意味がないように、死ぬこともまた特別な意味がないもの。自然なんだから。人が死ぬことは。

ただ、不自然なのは、自然の摂理にあわないこと。例えば、順番でないことや、自ら命をたつと言うこと。そうしたことに、私は、どうにも、居たたまれないのです。

だから、それについて、私は、批判も、美化もできないし、しない。

ただ、やっぱり、それが、家族や、恋人や、親戚や、親友だった場合は、悲しみや切なさ、怒りの矛先のやり場がわからない。

辛く、苦しい。

だから、自分では、相手がいての自分なので、相手である家族や、恋人や、親戚や、友人を悲しませたくない。

から、死なない。し、死ねない。



これは私の今現在の感想ですが、若いときほど、自死にクールになっています。いやクールと言うか、冷静になっています。

なぜなら、それが解決でないことも、未来と言う夢があることも、知ったからかもしれません。

若い頃は、解決策も見当たらず、夢と言う夢が不明瞭で、不確実だったから、なにか、何をするにも悶々としていた気がします。その先に、きっと死があったのだと思います。



自殺の問題を精神論で片付ける気は全くありません。今、国策としてシステム化していますし、我々ソーシャルワーカーにとっても無関心ではいられない、とても大切な問題ですからね。

でも、

生きることが当たり前の時代になっちゃって、もし死に直面した日々を暮らしていたら、自然と「死にたくない」って、強く思うだろうなぁ~、と漠然と思います。

いま、自分が、「今日死ぬ」なんて、想像もしませんからね。

死からとても遠い時代や場所に生きてるんですよね。

また、医療の進歩によって、生も死もコントロールできる時代ですから。

やっぱり、あとは、その命や、技術をどう考え、どうするかは、これからの人間が判断していかなければいけないことなんですよね。

本当は、法律や制度で、死や、生の定義はしてほしくないのですが、道徳や倫理などが問われる今の日本では、法律や制度で規定しなければ統制がとれないのかもしれないですね。

非常に悲しいし。死や、生が、国家によって管理されるようで、非常に息苦しい、ですが。ね。



さて、本日は、入試判定会議があります。これが前期。あともう一回後期試験で、次年度の学生が選抜されます。

今日から3月。

3月は、別れ、そして出会いの季節ですね。人生は大河の流れからすると、一瞬の一滴に過ぎませんね。

それを、人間の時間軸で、実感できるものに桜があります。

この別れと出会いの時期に、なぜ桜が咲き、散るのでしょうか。不思議ですね。

それでは、皆さん、素敵な一日をお過ごしください。

※本日掲載した、自殺に関する内容は、私見です。また、掲載の特性上、不足や、不十分な表現もあるかと思いますが、私自身、自殺を推奨したり、また自殺を完全的に否定する立場にありません。ご了承の上、ご覧ください。

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